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米国国際大学は何処にあるのか

 今まで何度か、”米国国際大学”をネット検索してもヒットしなかったのですが、最近、ネット上で情報を見つけることができました。Uni24k というサイトで、世界の大学が検索できるようです。ちなみに、京都府の地方大学のデータも検索してみたところ、ちゃんと掲載されていました。そのデータベースによると、米国国際大学(USIU:United States International University-Africa)が、ケニアのナイロビにあるとのこと。ウェブサイトは、http://www.usiu.ac.ke

 米国国際大学(USIU)は、1969年9月設立とのことで、宮原一男氏の博士号取得が1969年11月2日であることと矛盾はありません。上記ウェブサイトで、過去の論文が検索出来れば、『Kazvo MIYAHARA』を見つけられるかもしれません。

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博士論文は何処にあるのか

 『新日本延命学』の表紙には、医学博士 宮原一男著とあります。宮原氏に医学博士号を授与したのは、米国国際大学です。日本の大学で博士号を得るには、論文を3部作成し、大学と国会図書館に1部ずつ納めることになっていると聞いています。その論文は、国会図書館に閲覧申請して読むことができるそうです。米国国際大学は、日本の大学ではないため、国会図書館に論文を提出する必要はないでしょう。宮原氏は、米国国際大学に論文を提出したのでしょうか。

 『新日本延命学』には、二枚の学位証のコピーらしきものが収録されています。一枚は日本語で、もう一枚は英語で書かれています。日本語のものには、「主論文 運動神経筋と球の研究」が学位規定に合格している旨が記されているのですが、英語のものには、運動神経筋や球という語句は見当たりません。日本語の学位証の「主論文   運動神経筋と球の研究」にあたる部分には「Kazvo MIYAHARA」とあります。これが、宮原氏の研究を表しているのなら、米国国際大学には、『Kazvo MIYAHARA』という論文が保管されているのでしょうか。

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新日本延命学の講習会 5

 新日本延命学の講習会は、1986年1月から、京都社会福祉会館で「新日本延命学による健康教室」として隔月開催となりました。大徳寺の会場は、ガラス戸越しに墓地が見えましたが、新しい会場は、4階の和室大広間(定員50人)の広い窓から、二条城(1994年、ユネスコ世界遺産に登録)の石垣と堀を見下ろす、明るい環境になりました。

 名古屋に住んでいた新日本延命学創始者宮原一男氏は、その後も講習会へ来られることはありませんでした。1986年秋、熊本へ帰る と富川氏に連絡があり、その年の11月に亡くなられたという知らせも入りました。富川氏はじめ京都の世話人一同で、宮原氏の法要を営みました。

 新日本延命学による健康教室は、継続して開催されていましたが、1988年1月をもって終了しました。

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新日本延命学の講習会 4

 新日本延命学の講習会は、大阪、京都以外に、名古屋や横浜などにも世話人がいたと聞いています。健康器の取扱説明書の中に、健康器の申し込み先一覧があり、横浜、名古屋、東京、広島、大阪、京都の申し込み先の住所と電話番号が並んでいます。しかし、京都以外の講習会は閉じられていきました。わたしは、宮原氏の富川氏に対する信頼が厚かったことの現れと考えています。富川氏と京都世話人会の新日本延命学を後世に残したいという強い思いがあってのことでしょう。

 新日本延命学の創始者といえども、年齢には勝てません。大徳寺の講習会で、宮原氏自身が、直腸に腫瘍ができているので、わが身で研究していると話されて後、講習会へ来られなくなりました。何回か、富川氏が代役となり、講演と公開治療をされたのですが、宮原氏の復帰が見込めなくなると、大徳寺から、会場の貸し出し終了を告げられました。世話人会で相談し、富川氏に講師になってもらうよう要請して、会場を京都社会福祉会館に移して継続することになりました。

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新日本延命学の講習会 3

 大徳寺(京都市)での講習会の特徴のひとつは、大阪での講習会で行われていた足圧(そくあつ)の講習がなくなり、代わりに家庭健康器の講習が行われるようになったことです。この健康器は、大変効果が高く、比較的扱いやすいものでした。
 京都で講習会が開かれるようになる前の大阪の講習会場では、足圧の講習と健康器の講習の両方が行われていたそうです。受講者は、どちらかを選んで習うことができたと言えば、何の問題もないようですが、講習する側の考えの違いによって生じた対立の表れだったのです。

 このような経緯から、大阪講習会の世話人のひとりだった富川氏が、宮原氏の依頼を受けて責任者となり、京都の大徳寺で講習会が開かれることになりました。その際、富川氏は、健康器の講習に反対だった大阪講習会のメンバーの出入りを禁止するという条件をつけられたのでした。

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新日本延命学の講習会 2

 宮原氏の公開治療の後、新日本延命学療法の実技指導の時間がありました。といっても、徒手による宮原氏の治療手技を真似ることは困難なので、同じ効果は見込めないものの、家庭療法として足を使った施術方法が紹介されました。施術者は、自分の体を支えて安定させるために、組み立て式の鉄棒を使っていました。現在、「足圧(そくあつ)」として行なわれている治療法の元になったと聞いています。

 1970年代初めに中心山荘で行なわれていた新日本延命学の講習会は、会場を大阪に移すことになり、同様の形式で続けられていたのですが、わたしが、世話人の一人として講習会に通いだした1980年頃には、会場が京都の大徳寺に移っていました。

 大徳寺での講習会では、宮原氏が講演の冒頭に、
「きょう、お話しすることは、実は私一人で研究したのではなくて、○○という人と一緒に研究したことです。その人は、戦時中、南方へ行って行方が分からなくなっていて、探しているんです。」
と言って、共同研究者がいたことを話されていました。その後も毎回、講演のはじめにそう話されていたのですが、いつの頃からか、話されなくなりました。わたしも、そのことを忘れてしまい、共同研究者の名前を思い出すことができません。

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新日本延命学の講習会

 わたしが小学生の頃(1970年代初め)、中心山荘で行なわれていた、新日本延命学の講習会に、母親に連れられて行きました。恩師富川清太郎が、中心健康会(だったか)の会員となって、通っておられた講習会で、宮原一男氏による講演と治療施術の実演、家庭療法の実技指導があったと記憶しています。
 講演の内容は、こどもにも理解できる平易な言葉でしたが、今振り返っても、健康や病の核心を突いたものだと思います。
 実演は、論より証拠、百聞は一見に如かずと言う通り、公開治療によって、新日本延命学療法の効果を受講者に示すものでした。治療を受けていた方は、単なるモデルではなく、実際に何らかの病気を患っている初診の人でした。
 受講者の目の前で、患者の特徴とスジの関係を説明し─特に重要視している胃下垂の見分け方を説明するときには、患者の手をみぞおちにあてがい、「この感触をよく覚えておいてください。きょう、胃が上がったら、もう感じられなくなりますから。」と念押しする場面が印象的でした─、治療にかかるや、患者のからだがたちまちに変化して、いかにも柔らかく、血液の流れが良くなったことが、見ているだけで伝わってきました。

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ブログ 練習

宮原氏の施術動画と比較

 SujiLabの目標の一つは、新日本延命学の創始者宮原一男氏の施術手技を再現することです。宮原氏の施術を記録した動画を参考に、試行錯誤を繰り返しています。

 練習を録画して、宮原氏の施術動画と比較し易い動画を作成しました。今日に至るまで長期間を要しましたが、近頃は、形が似てきました。
 施術効果の方は、客観的な比較方法がなく、宮原氏の実際の施術を見ていた人に判定してもらいたいものです。

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ブログ 練習

Zoom + タブレット

 Zoomの録画機能を使って、2方向から録画するのに加え、手元をリアルタイムに確認するためにタブレットを使用しました。

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ブログ 練習

練習の振り返り動画(Zoom)

 練習を振り返るための動画制作も、いろいろやっています。今回は、Zoomの録画機能を使用して、2つのアングルの動画を1つの画面に手軽に収めることができました。施術直後にすばやく確認する用途には向いていません。

 Zoomの録画機能を使って2台のカメラで、別角度から施術手技を確認しました。全く同じ瞬間ではありませんが、ズレは許容範囲内。