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中心山荘から半世紀

元記事:fb2020-09-22

 大阪の講習会より更に前、昭和47年1月のこと。宮原先生は、京都府南部にあった健康学園中心山荘で、新日本延命学の講演と実演を始められることになりました。
 わたしの師匠富川清太郎が学び、わたしが、宮原先生の治療を初めて見た講習会です。
 あんなことが出来るようになりたいと思ってから半世紀を経ても、富川先生、宮原先生に及びませんが、近頃は、研究仲間が増え、施術手技の改良が進んでいます。

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薬は一生涯必要?

元記事:fb2020-09-21

 小学4年の秋、京都第一赤十字病院を受診することになりました。父の同級生で、看護婦長をしている方がいて、紹介してもらったようでした。

 診断は、京大病院と同じく重症筋無力症。一か月間の検査入院となりました。服薬量を決めるためということでしたが、データ集めが主な目的だったのではないでしょうか。食前に服用するのですが、食事を口にするまでの間に、副作用の腹痛が起きていました。薬の量が調節されたとは記憶していません。

 それはともかく、退院の運びとなり、父が迎えに来てくれました。同級生の婦長さんにあいさつしたとき、「こどもにしては、薬の量が多い」と漏らしたそうです。父は、それを聞いて、その薬を一生飲み続けることになるのか、えらいことやな と思ったそうです。

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大阪の講習会

元記事:fb2020-09-20

 京都の講習会の前身として、大阪の講習会がありました。何人かの熱心に新日本延命学を学んでいた人たちが世話人になって、京都の講習会とほぼ同じ構成で行なわれていたそうです。宮原先生の講演に続いて、実演(公開治療)があり、最後に家庭療法の講習という具合ですが、まだ、「健康器」が発明される前の段階で、足を使う治療法(富川先生は「足踏み」と呼ばれていたと記憶しています)の講習でした。

 宮原先生の手技を真似ることは、容易な事ではありません。たとえ真似事であっても、大変な労力を要し、参ってしまいます。治療師のような技能や知識がない一般の人でも、家族の健康を守るためにできる方法として、考え出されたのが「足踏み」です。もちろん、宮原先生の手技には遠く及びませんが、根気よく続けてコツをつかめば、家庭療法として効果の高いものになります。「足踏み」もSujiLabの研究テーマになりそうです。

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無症状でも治ったのではない?

元記事:fb2020-09-19

 何週間か毎に京大病院へ通い、問診と注射薬による検査、内服薬の処方。薬の効果は、あまり感じられなかったと思います。

 ところが、秋の初めころ、薬を飲まなくても両方の瞼が、ちゃんと上がるようになりました。その年の夏休みに、海辺の親戚の家に10日間くらい泊めてもらって、毎日いとこたちと泳いで過ごしたのですが、それが良かったのではないかと、わが家では話していました。

 それにしても、突然体が動かなくなるかもしれない重症筋無力症の子どもを、海で泳がせてくれた両親や伯父、叔母の心境は、どんなものだったろうと想像しますと、ありがたいと思わずに居れません。

 症状が出なくなったので、京大病院へも行かなくなったのですが、その年の12月ころだったか、前とは反対側の瞼が上がらなくなり、再び京大病院を受診。医師からは、この病気は、症状が出なくなって治ったように思っていても、いずれ再発して、治ることはない と説明されました。

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京都の講習会 午後の部

元記事:fb2020-09-18

 大徳寺での講習会は、宮原先生の公開治療の後も、昼食を挟んで続きます(宮原先生は、別室で患者さんの治療に当たられていて、午後の講習には出てこられません)。
 受講者の多くは、ご自身が病気であったり、身内に病人がいる人でした。午後の講習は、そういう方を対象に、家庭で出来る治療法として、「健康器」の使用法の説明と練習の時間でした。この健康器の効果は、抜群です。宮原先生の手の代わりとまではいきませんが、一般の人にとって、手で行う方法と比べて、ずっと楽に効果が出ます。それに、丈夫で長持ちするので、わたしは、今でも当時に購入したものを使用して、自分の体の手入れをしています。残念なことに、現在は、製造、販売されていません。

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わたし及び身近な人々 ブログ 症例

重症筋無力症を発症

元記事:fb2020-09-17

 わたしが、富川先生から延命学の治療を受け始める前、小学3年生になったばかりの頃、重症筋無力症を発症しました。この病気は、突然、筋肉に力が入らなくなること(そして、しばらく休めば力が回復すること)が特徴なのですが、わたしの場合は、瞼(まぶた)を引き上げる筋肉に顕著に現れました。症状に気付いた母に連れられ眼科へ行くと、視力検査や暗室での検査の後、これは、目の病気ではない。大学病院へ行くようにと勧められたのです。

 京都大学附属病院での診断が、重症筋無力症でした。医師の説明は、この病気は、現在の医療では治すことができない。症状を軽くする薬を飲み続ける必要がある。今は、瞼の筋肉に出ているが、全身のどこの筋肉にも出る可能性があるので、道路を渡っているときに、足が動かなくなる恐れだってある。呼吸をする筋肉の場合は、息ができなくなることもある というものでした。

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京都の講習会

元記事:fb2020-09-16

 1980年ころ1976年(昭和51年)からは、京都の大徳寺で、宮原一男先生を招いて新日本延命学の講習会が定期的に開かれていました。講習会の前半で宮原先生の講演があり、その後、宮原先生による公開治療が行なわれました。会場は畳の間で、中央に布団が敷かれて治療が行われるのですが、受講者は布団を取り囲んで、間近に宮原先生の治療手技を見ることができました。

 宮原先生の治療手技は、リズミカルで、全身を使った力強いものでしたが、不思議なことに治療されている方は、ほとんど痛みを訴えられないのです。そして、患者さんの体の変化が見ているだけではっきりと分かります。硬くなって盛り上がっていた腿やお腹が、瞬く間に、つきたてのお餅のようになってしまいました。

 京都の講習会では、先天性股関節脱臼の方の治療が多かったので、治療前に大きく違っていた踵の位置が、治療後は、ほとんど差がないくらいに揃ってしまうという変化に、受講者のため息や驚きの声が起こりました。

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公開治療に魅了された

元記事:fb2020-09-14

なぜ、わたしが新日本延命学を研究するようになったのか。

 それは、子どものころ見た、新日本延命学の創始者である宮原一男先生の公開治療に魅了されたからなのです。当時わたしは、治療を受ける側の立場だったのですが、いつか自分もこの技術を身に付けたいと思ったのです。

 新日本延命学の治療をしていただいていたのは、後に、わたしの師匠になる富川清太郎という方です。富川先生は、当時、京都の西陣織の職人でしたが、講習会に通って新日本延命学を学んでおられました。伯母が、わたしのことを富川先生に相談してくれたことがきっかけで、講習会に誘っていただくなど、お世話になっていたのです。

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原理は単純、検証は困難

元記事:fb2020-09-13

 新日本延命学を検証すると言って、SujiLabで何をしているのか。治療原理と効果について確かめているのですが、運動神経筋とはどのようなものか、宮原先生の治療手技を再現するにはどうすればよいのかを研究しています。

 新日本延命学の病理観は、血液の流れが不足することが疾病の大元であり、その原因は、運動神経筋による血管の圧迫であるというものです。そこから導かれた施術手技は、血管を圧迫している運動神経筋を横へ動かして、血管を解放するという原理です。身体諸器官の働きを支えている血流が改善するので、様々な疾病に対して効果的であると言えます。

 血液の流れが悪くなると、体調不良を来たし、生活習慣病や、それらが進展して重大な疾患を招くことは、テレビ、新聞、雑誌、ネット等で、良く見聞きするようになりました。ところが、新日本延命学師以外に、血液の流れを悪くして疾病を招く大本が、運動神経筋であると報じているものは、皆無です。

 運動神経筋のことや、その治療法について、『新日本延命学』に書かれていることは十分とは言えません。また、宮原先生は、自身の卓越した治療手技について誰にも伝えていません。ですから、宮原先生の治療手技を再現することや、その効果を検証することは、大変困難な状況です。SujiLabでは、これらの解明に向けて様々な実験的取り組みを行っています。

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運動神経筋は4本

元記事:fb2020-09-11

 宮原一男著『新日本延命学』によると、「主な運動神経筋」は、腹と背のそれぞれに、縦に左右2本の運動神経筋があり、全身に伸びています。ごく単純な図で、運動神経筋のつながり方が示されています。
 注目すべき点は、身体の左右の運動神経筋はつながっていないこと。もう一つは、腹部の前側を通る運動神経筋が、下肢では後ろ側を通っており、背部を通る運動神経筋が、下肢では前側を通っている点です。