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延命学的に考え、対処

元記事:fb2020-09-25

 薬を止めることについて、両親は反対しませんでした。

 中学の頃は、腹痛と下痢をよく起こし、止瀉薬や整腸剤を服用することが多かったのですが、それも止めました。頭痛薬や解熱剤も、テレビコマーシャルでよく目にしましたが、飲みませんでした。風邪をひいて熱が上がっても、医者にかかることはなくなりました。

 腹痛・下痢は、運動神経筋が縮んで胃腸の血流が悪くなって起こるもの。脚周りのスジを治療することで、血流が改善し症状が治まるので、薬は要らない。
 頭痛は、首の付け根のスジが硬くなって起こる。つまり肩凝りが原因。こどもながら、「これは、40代の肩やな」と富川先生から言われていました。
 肩のスジは、つながっている臀部のスジが縮むことによって引っ張られるので、肩凝り・頭痛の時には、臀部のスジをボールを使って動かすと楽になります。
 風邪で熱が上がった時は、体にとって必要な反応 と考えて様子を見ていました。3日経っても熱が下がらない時は、風邪ではないかもしれないので、医者に診てもらう必要がある と医師の書いた本で読んだことがあるのですが、幸いに、3日以内に熱は下がりました。

薬を飲まないことで、延命学的な考え方や対処法を身に付けていったのですね。

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薬をやめる

元記事:fb2020-09-23

 小学3年の初めに重症筋無力症を発症したと書きましたが、記憶違いでした。小学生の頃の『健康診断個人票』が残してあったので確認したところ、2年生の4月15日
 「筋無力症(治療薬服用 半永久的に)」
と書かれていました。発症は、それより前ということになりますね。

 富川先生に、新日本延命学の治療をしていただくようになったのは、昭和47年の初めころだと思います。小学5~6年生頃。
 新日本延命学の原理は、血液の流れが悪くなるから病気になる。その原因は、スジの腫れが血管を圧迫すること。スジの腫れを血管から離せば、血液の流れが回復して病気が治る。
という、単純明快なものです。
富川先生は、わたしに向かって、
人間は、薬で動いてるのと違うやろ。
と。これが、刺さりました。
 腹痛の副作用がある薬を1日3回飲んでいて、しかも、病気を治すものではない。医師からは生涯続けなければいけないと言われていました。中学2年生の頃と記憶しています。わたしは、母親に宣言しました。
「薬を飲むの止める。」

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薬は一生涯必要?

元記事:fb2020-09-21

 小学4年の秋、京都第一赤十字病院を受診することになりました。父の同級生で、看護婦長をしている方がいて、紹介してもらったようでした。

 診断は、京大病院と同じく重症筋無力症。一か月間の検査入院となりました。服薬量を決めるためということでしたが、データ集めが主な目的だったのではないでしょうか。食前に服用するのですが、食事を口にするまでの間に、副作用の腹痛が起きていました。薬の量が調節されたとは記憶していません。

 それはともかく、退院の運びとなり、父が迎えに来てくれました。同級生の婦長さんにあいさつしたとき、「こどもにしては、薬の量が多い」と漏らしたそうです。父は、それを聞いて、その薬を一生飲み続けることになるのか、えらいことやな と思ったそうです。

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無症状でも治ったのではない?

元記事:fb2020-09-19

 何週間か毎に京大病院へ通い、問診と注射薬による検査、内服薬の処方。薬の効果は、あまり感じられなかったと思います。

 ところが、秋の初めころ、薬を飲まなくても両方の瞼が、ちゃんと上がるようになりました。その年の夏休みに、海辺の親戚の家に10日間くらい泊めてもらって、毎日いとこたちと泳いで過ごしたのですが、それが良かったのではないかと、わが家では話していました。

 それにしても、突然体が動かなくなるかもしれない重症筋無力症の子どもを、海で泳がせてくれた両親や伯父、叔母の心境は、どんなものだったろうと想像しますと、ありがたいと思わずに居れません。

 症状が出なくなったので、京大病院へも行かなくなったのですが、その年の12月ころだったか、前とは反対側の瞼が上がらなくなり、再び京大病院を受診。医師からは、この病気は、症状が出なくなって治ったように思っていても、いずれ再発して、治ることはない と説明されました。

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重症筋無力症を発症

元記事:fb2020-09-17

 わたしが、富川先生から延命学の治療を受け始める前、小学3年生になったばかりの頃、重症筋無力症を発症しました。この病気は、突然、筋肉に力が入らなくなること(そして、しばらく休めば力が回復すること)が特徴なのですが、わたしの場合は、瞼(まぶた)を引き上げる筋肉に顕著に現れました。症状に気付いた母に連れられ眼科へ行くと、視力検査や暗室での検査の後、これは、目の病気ではない。大学病院へ行くようにと勧められたのです。

 京都大学附属病院での診断が、重症筋無力症でした。医師の説明は、この病気は、現在の医療では治すことができない。症状を軽くする薬を飲み続ける必要がある。今は、瞼の筋肉に出ているが、全身のどこの筋肉にも出る可能性があるので、道路を渡っているときに、足が動かなくなる恐れだってある。呼吸をする筋肉の場合は、息ができなくなることもある というものでした。

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公開治療に魅了された

元記事:fb2020-09-14

なぜ、わたしが新日本延命学を研究するようになったのか。

 それは、子どものころ見た、新日本延命学の創始者である宮原一男先生の公開治療に魅了されたからなのです。当時わたしは、治療を受ける側の立場だったのですが、いつか自分もこの技術を身に付けたいと思ったのです。

 新日本延命学の治療をしていただいていたのは、後に、わたしの師匠になる富川清太郎という方です。富川先生は、当時、京都の西陣織の職人でしたが、講習会に通って新日本延命学を学んでおられました。伯母が、わたしのことを富川先生に相談してくれたことがきっかけで、講習会に誘っていただくなど、お世話になっていたのです。

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義母は、心配していた

元記事:fb2020-07-07

 義母は、1929年生まれ。90歳を超えても姿勢が良く、食事も作れるし、食べる量も驚くほど快食。若い頃は、京都府で生活改善普及員をしていたそうです。
「衣食住って言うけど、大切な順番に並べると、食・住・衣。」
が持論で、安心安全で、手早く出来て経済的な家庭料理を研究してこられました。家族の健康を食事面、経済面で支えていた義母が、子宮筋腫を患った時、入院、手術を避け、医者の治療ではなく食養生とヨガで克服されたそうです。

 わたしの延命学治療を初めて受けられた時、肩凝り、鼻の不調、背中の圧迫感、O脚などの症状がありました。義母は、前述のような体験から、延命学を受け入れやすかったようでした。それ以来、延命学的セルフケアを熱心に続けています。
「やらんとおれへんの。楽やもん。」
と言いながら。
 しかし、その義母は、初めての治療を振り返る度に、
「あの時はね、スジって何? 今押されてるとこは骨やのに。○○ちゃん、この人と結婚して大丈夫やろかって思ったんよ。」と笑っています。