わたしには、「延命学的」をキーワードに、人体生理や疾病に伴う症状を解釈・説明する習慣があります。わたしの言う延命学的とは、血液の流れを監視する仕組みが人体には備わっていて、必要に応じて血流配分が無意識のうちに行われていることと、無意識のうちに血流配分ができないときには、身体は不快感によってそのことを意識に知らせるようになっている という観点を持つことです。
ランニングを例に説明してみましょう。走り始めた時はなんともありませんが、しばらくすると息が上がってきますね。この時心拍数も上がっています。ランニングに必要な酸素を供給するためであることは誰でも知っていますが、予め、ランニングに必要な呼吸数や心拍数を意識して調節している人はいないでしょう。このことを、身体が必要に応じて無意識のうちに血流配分をしていると見るのです。更にランニングを続けていると、息が苦しくなったり脚が重く感じられるようになりますが、この状況について、身体が意識に対して、血流不足が生じていることを知らせていると見るのです。
少し飛躍するようですが、不快感は、血流不足の状態にあることを身体が意識に知らせているのであり、強い不快感を痛みとして感じるようになっていて、意識的な行動で血流不足を解消するように仕向けられていると考えています。
さまざまな不快感や痛みを、このような単純な理論で説明する試みを、「延命学的に考える」と言って、SujiLabの仲間にも奨励してきました。
新日本延命学の創始者である宮原一男氏は、施術をしながら「血液を流すということ」と言っていましたし、わたしの恩師富川清太郎は、痛みや不快感が起きる原因を「冷え」と言い切っていました。冷えは、血液が運んでくる熱が足りない状態や、その部位が発熱するために必要な酸素が足りないことの現れですから、正に「延命学的」です。
このように、「延命学的」という言葉は、新日本延命学の病理観を表していると思うのですが、宮原氏や富川氏が唱えていたのではなく、この文のはじめに紹介した不快感や痛みの解釈は、わたしの推測にすぎません。
SujiLabを多くの人の目に触れるWebで紹介するにあたり、わたしの勝手な解釈を新日本延命学と結びつけることは控え、今後は、「延命学的」ではなく「SujiLab的」を使用します。