元記事:fb2020-09-27
高校の頃は、友達に練習台になってもらうこともありました。
卒業後1年くらいして、父に誘われて大徳寺の講習会の手伝いに入るようになりました。世話人の人たちと月に一度、富川先生のところで勉強会があり、一緒に学ばせてもらいました。
当時、わたしは勤めていたのですが、ある日、富川先生から、この治療を仕事としてやる気はないか と声をかけてもらいました。先生は、これからの時代のことを考えると、免許を取った方が良いと思う と仰った
元記事:fb2020-09-27
高校の頃は、友達に練習台になってもらうこともありました。
卒業後1年くらいして、父に誘われて大徳寺の講習会の手伝いに入るようになりました。世話人の人たちと月に一度、富川先生のところで勉強会があり、一緒に学ばせてもらいました。
当時、わたしは勤めていたのですが、ある日、富川先生から、この治療を仕事としてやる気はないか と声をかけてもらいました。先生は、これからの時代のことを考えると、免許を取った方が良いと思う と仰った
元記事:fb2020-09-26
中学二年生の頃だったと思います。「健康器」が、わが家にやってきました。富川先生からの依頼で父が考案した、治療用ベッドを使えば、全身の治療が一人でできます。わたしは、今でもそれを使って、セルフケアをしています。
元記事:fb2020-09-25
薬を止めることについて、両親は反対しませんでした。
中学の頃は、腹痛と下痢をよく起こし、止瀉薬や整腸剤を服用することが多かったのですが、それも止めました。頭痛薬や解熱剤も、テレビコマーシャルでよく目にしましたが、飲みませんでした。風邪をひいて熱が上がっても、医者にかかることはなくなりました。
腹痛・下痢は、運動神経筋が縮んで胃腸の血流が悪くなって起こるもの。脚周りのスジを治療することで、血流が改善し症状が治まるので、薬は要らない。
頭痛は、首の付け根のスジが硬くなって起こる。つまり肩凝りが原因。こどもながら、「これは、40代の肩やな」と富川先生から言われていました。
肩のスジは、つながっている臀部のスジが縮むことによって引っ張られるので、肩凝り・頭痛の時には、臀部のスジをボールを使って動かすと楽になります。
風邪で熱が上がった時は、体にとって必要な反応 と考えて様子を見ていました。3日経っても熱が下がらない時は、風邪ではないかもしれないので、医者に診てもらう必要がある と医師の書いた本で読んだことがあるのですが、幸いに、3日以内に熱は下がりました。
薬を飲まないことで、延命学的な考え方や対処法を身に付けていったのですね。
元記事:fb2020-09-24
わたしは、持病のため、小学校高学年の頃に富川先生から新日本延命学の治療を受けていました。
先生は、
「自分でできることは、自分でしなさい」
と 小学生のわたしに、動かすべきスジの場所を教えてくださいました。
両親も治療手技を学んで、わたしに施術してくれていました。治療法の基本は、脚の付け根と腕の付け根のスジを、弦を弾くように動かすことです。しかし、指で脚のスジを動かすことは大変です。前に書いた「足踏み」もしてもらいました。
わたしが自分自身の治療をするときは、野球ボールに乗ってボールがスジを横切るように、体のほうを動かす方法でした。ソフトボールや軟式野球のボールなど、サイズや硬さの違うものを試しました。背骨の両側を縦に通っているスジには、柱の角を使って、柱にもたれながら体を左右に動かす方法で治療しました。
指を使う方法も積極的にやりました。大腿内側や大腿前面、肩関節周りの自己施術で、スジがうまく動いた感触があると、その部位が柔らかくなることが分かりました。わたしの運動神経筋の研究は、こんな風に始まりました。
元記事:fb2020-09-23
小学3年の初めに重症筋無力症を発症したと書きましたが、記憶違いでした。小学生の頃の『健康診断個人票』が残してあったので確認したところ、2年生の4月15日
「筋無力症(治療薬服用 半永久的に)」
と書かれていました。発症は、それより前ということになりますね。
富川先生に、新日本延命学の治療をしていただくようになったのは、昭和47年の初めころだと思います。小学5~6年生頃。
新日本延命学の原理は、血液の流れが悪くなるから病気になる。その原因は、スジの腫れが血管を圧迫すること。スジの腫れを血管から離せば、血液の流れが回復して病気が治る。
という、単純明快なものです。
富川先生は、わたしに向かって、
「人間は、薬で動いてるのと違うやろ。」
と。これが、刺さりました。
腹痛の副作用がある薬を1日3回飲んでいて、しかも、病気を治すものではない。医師からは生涯続けなければいけないと言われていました。中学2年生の頃と記憶しています。わたしは、母親に宣言しました。
「薬を飲むの止める。」
元記事:fb2020-09-22
大阪の講習会より更に前、昭和47年1月のこと。宮原先生は、京都府南部にあった健康学園中心山荘で、新日本延命学の講演と実演を始められることになりました。
わたしの師匠富川清太郎が学び、わたしが、宮原先生の治療を初めて見た講習会です。
あんなことが出来るようになりたいと思ってから半世紀を経ても、富川先生、宮原先生に及びませんが、近頃は、研究仲間が増え、施術手技の改良が進んでいます。
元記事:fb2020-09-21
小学4年の秋、京都第一赤十字病院を受診することになりました。父の同級生で、看護婦長をしている方がいて、紹介してもらったようでした。
診断は、京大病院と同じく重症筋無力症。一か月間の検査入院となりました。服薬量を決めるためということでしたが、データ集めが主な目的だったのではないでしょうか。食前に服用するのですが、食事を口にするまでの間に、副作用の腹痛が起きていました。薬の量が調節されたとは記憶していません。
それはともかく、退院の運びとなり、父が迎えに来てくれました。同級生の婦長さんにあいさつしたとき、「こどもにしては、薬の量が多い」と漏らしたそうです。父は、それを聞いて、その薬を一生飲み続けることになるのか、えらいことやな と思ったそうです。
元記事:fb2020-09-20
京都の講習会の前身として、大阪の講習会がありました。何人かの熱心に新日本延命学を学んでいた人たちが世話人になって、京都の講習会とほぼ同じ構成で行なわれていたそうです。宮原先生の講演に続いて、実演(公開治療)があり、最後に家庭療法の講習という具合ですが、まだ、「健康器」が発明される前の段階で、足を使う治療法(富川先生は「足踏み」と呼ばれていたと記憶しています)の講習でした。
宮原先生の手技を真似ることは、容易な事ではありません。たとえ真似事であっても、大変な労力を要し、参ってしまいます。治療師のような技能や知識がない一般の人でも、家族の健康を守るためにできる方法として、考え出されたのが「足踏み」です。もちろん、宮原先生の手技には遠く及びませんが、根気よく続けてコツをつかめば、家庭療法として効果の高いものになります。「足踏み」もSujiLabの研究テーマになりそうです。
元記事:fb2020-09-19
何週間か毎に京大病院へ通い、問診と注射薬による検査、内服薬の処方。薬の効果は、あまり感じられなかったと思います。
ところが、秋の初めころ、薬を飲まなくても両方の瞼が、ちゃんと上がるようになりました。その年の夏休みに、海辺の親戚の家に10日間くらい泊めてもらって、毎日いとこたちと泳いで過ごしたのですが、それが良かったのではないかと、わが家では話していました。
それにしても、突然体が動かなくなるかもしれない重症筋無力症の子どもを、海で泳がせてくれた両親や伯父、叔母の心境は、どんなものだったろうと想像しますと、ありがたいと思わずに居れません。
症状が出なくなったので、京大病院へも行かなくなったのですが、その年の12月ころだったか、前とは反対側の瞼が上がらなくなり、再び京大病院を受診。医師からは、この病気は、症状が出なくなって治ったように思っていても、いずれ再発して、治ることはない と説明されました。
元記事:fb2020-09-18
大徳寺での講習会は、宮原先生の公開治療の後も、昼食を挟んで続きます(宮原先生は、別室で患者さんの治療に当たられていて、午後の講習には出てこられません)。
受講者の多くは、ご自身が病気であったり、身内に病人がいる人でした。午後の講習は、そういう方を対象に、家庭で出来る治療法として、「健康器」の使用法の説明と練習の時間でした。この健康器の効果は、抜群です。宮原先生の手の代わりとまではいきませんが、一般の人にとって、手で行う方法と比べて、ずっと楽に効果が出ます。それに、丈夫で長持ちするので、わたしは、今でも当時に購入したものを使用して、自分の体の手入れをしています。残念なことに、現在は、製造、販売されていません。